■自転車で旅をすること
自転車旅行とは、スポーツである。
都合により木曜日更新に変更しました。前回のあらすじ。ここ数年、日本においては、社会人や中高年の年齢層を中心にサイクルスポーツの人気が高まりつつある。しかし一方で、高校生などのジュニア世代や大学生などのユース世代においては、自転車競技がマイナースポーツである状況はさほど変わっていない。ではその違いはどこから来るのかというと、長らく「競輪」を後ろ盾としてきた高校自転車部に象徴されるように、日本独自の自転車競技環境に問題があると思われる。
ツール特別月間も終わり、今週から「旅と自転車」コラムを再開したい。さて、そろそろ「旅」について書いてみようかと考えていたのだが、ツールの余韻が消え去らないうちに、今回は「日本の自転車競技」をテーマに書いてみることにする。近年、日本において自転車ロードレースの知名度が高くなってきたとはいえ、初めてツール・ド・フランスを見たような人は、大抵このように尋ねてくる。「日本人は出ていないの?」。あるいは最近、自転車ロードレースを見始めたという人でも、海外のレース事情は詳しくなったけれど、日本のレース事情はどのようなものなのか、あまり知らないという人が多いのではないだろうか。そこで今回は、日本における自転車競技とはどういうものなのか、何が問題で世界に出て行けないのかということについて考えてみたい。
前回のおさらい。西欧諸国では自転車ロードレースを始めとした「移動するスポーツ」が国民的な人気を博している。その理由を考えてみると、ツールやジロといった国際的な自転車ロードレースの人気は、メディア戦略によるところが大きいと推測できる。ではなぜ、日本においてはメディアのバックアップがあっても、これらの「移動するスポーツ」がマイナースポーツに留まっているのだろうか。
今年もツール・ド・フランスの季節がやってきた。昨年100周年を迎えたこの世界的スポーツイベントは、フランスのみならず、ヨーロッパ各国で絶大な人気を誇っている。とりわけ、フランス、スペイン、イタリア、ベルギー、オランダといった西欧の国々では、自転車はサッカーに次ぐ第二の国民的スポーツとして広く認知されており、競技人口は非常に多く、レースだけで生計を立てられるプロ選手が職業として成立するほど裾野が広い。
今回は毒にも薬にもならない無駄話をひとつ。私はこの10年来、学校という人間の入れ替わりの激しい場所で、毎年新しいサイクリストたちに出会い続けてきた。その数はおそらく100人近くに上るだろう。その中には、サークルという環境に馴染めず、早々に姿を消してしまった者もいるし、ある期間熱心に自転車に打ち込みながら、ある日突然引退してしまう大多数の者がいて、そして少数派ながら、いまも変わらず自転車に乗り続ける者がいる。
前回までのおさらい。自転車には乗り物としての本質的な魅力があると同時に、人間の個性を活かし、あるいは人間本来の個性を引き出す道具としての特性がある。
結局、ここから何が言えるかというと、自転車の世界は間口が広く、奥が深いということである。言い方を替えれば、シンプルで無駄のない道具であるがゆえに、その用途は拡張性を持つ。したがって、人間や荷物を目的地まで運ぶという実用的な用途のみならず、スピードや駆け引きを競い合うレース、悪路の走行や体力の限界に挑むスポーツ、操縦術を磨くトライアル、そして旅を楽しむツーリングのように、さまざまな「楽しみ方」が開拓されてきたからこそ、自動車社会の中でも淘汰されることなく現在まで生き残ってきたと言える。私が自転車と出会ってからこれまで離れられなかった理由も同じように、さまざまな自転車の「楽しみ方」と出会い、それを開拓してきたからだと思う。
前回のおさらい。自転車の動力は人力であるため、乗り手の個性がそのまま乗り方に反映される。一方、クルマの動力は機械であり、様々な制約によって乗り手の個性が奪われている。その結果、自転車は人間にとって道具となるが、クルマの場合は疑問符がつく。
ただし、以上の比較は社会的な観点によるもので、クルマそのものに「自由」を制約する特性があるわけではない。違法な暴走行為は論外にしても、サーキット等で制約のない運転を行うことは可能だし、あるいは日常の運転でも特に不自由を感じない人だっているかも知れない。一方、自転車についても一切の社会的制約から免れるわけではなく、免停や罰金等による抑止力が無いとはいえ、公道を走行する以上は道路交通法を遵守しなければならない。したがって、確かに自転車はクルマと比べて相対的に「自由」ではあるけれど、それをもって自転車ならでは特性とするにはちょっと弱い。そこで今回は、もう少し「道具としての自転車」を突き詰めて考えてみる。
前回のおさらい。自転車と自動車(クルマ)の違いは何か。辞書によると「自転」とは「自力で運転する」の意味であるのに対して、「自動」とは「自分の力で動く」という意味であり、人間と乗り物の主従がまったく逆転している。それはなぜだろうか。
自転車とクルマの決定的な違いは、動力が人力であるかどうかである。したがって、自転車は乗り手の個性がそのまま乗り方に反映される。体力のある人は長距離を走り、スピードが好きな人はハイペースで、好奇心が強い人はあちこち寄り道をしながら、冒険心が強い人はいつも経路を変えながら、勝手気ままに運転することができる。あるいは集団走行によって、各自が同じペースで同じ経路を走ることもできるが、すべては乗り手側に決定権があり、自転車側は人間の手足の代わりとなって動くことしかできない。トラブルや性能の良し悪しこそあれ、自転車の都合によって極端にペースが変化することはありえないし、経路が決定されるということもまたありえない。すなわち、自転車は人間にとって道具である。
前回のあらすじ。自転車には乗り物としての本質的な魅力がある。しかし、その魅力はクルマやオートバイなど他の乗り物によって代替されうる性質のものだ。では、自転車ならではの特性とは何だろうか。
前回までのあらすじ。私は自転車旅行が趣味である。どうやらその醍醐味は、旅の目的や目標よりも、過程そのものにあると漠然と考えている。そして、なぜ自転車で旅をするのかについて考えてみると、根本の理由は自転車そのものの魅力にあることに突き当たった。序論は以上、今回からは毎週火曜日の更新を目標に、自転車の魅力や旅のスタイルについて書いていこうと思う。
自転車は乗り物である。自転車を機能面から定義すれば、このひとことで充分ではないだろうか。もちろん、自転車には用途に合わせて様々な種類がある。買い物用自転車(いわゆるママチャリ)を始め、変速機の付いたシティサイクル、トライアルバイク、そしてスポーツ車と呼ばれるロードレーサーや、マウンテンバイク、さらにはツーリング用のクロスバイク、ランドナー、折りたたみ自転車などなど。誕生から1世紀以上を経過して、その形態は著しく進化を遂げているが、乗り物としての本質が変わることはない。
「なぜ自転車に乗っている?」
かつてオーストラリアの砂漠地帯を自転車で横断していたときのこと。宿屋を兼ねたロードサイドのパブで、スコットランド人の旅行者にこう問いかけられたことがある。よくある疑問のように思えるかも知れないが、案外面と向かって尋ねてくる人はいないもので、彼が初めての質問者だった。わざわざ辺境にやってきて、日がな一日ただ走っているだけの妙な集団がいるとなれば、頭は大丈夫か?程度のニュアンスで投げかけた言葉かも知れない。それでも、さすがに「対話」慣れした西洋人だと少しばかり感心した。
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